2005年11月17日

いただきますを言はさぬ親

久方ぶりにここ降りぬるに、あやしき戎の句問いや運び二三並びたるにやや呆れん。

それはそれ、吾がことにあらずも大いに呆れしは、かの文中記事にあり。

いただきます&ごちそうさま

親の顔が見たい


近頃人の人らしからぬ罪犯せる人多ければ、身に心にさむざむと覚ゆばかりなれど、さてまた斯様な親の人にして人にあらまじき言ひ草こそ、げに胸わろく冷えたる心持ちなれ。

半年あまり前の話なるに、僧籍の知人テレビの番組に嘆けき。「学び舎にて童の議論聞くに、残念なることあり。師の問ふ、給食にていただきますと唱するは何故ならんと。童口々に言ふ。一人曰く、料理したる方々へ謝す。また一人曰く、料理の人仕事なれば、謝する要なし、お百姓へ謝すと。また一人曰く、百姓また仕事なれば、食はせたる親にこそ謝するものと。いづれも間違ひにはあらねども、つひに最後まで、物に命のあるを奪ふことなればこれを謝すと言ふ子の無きぞ悲しき」

吾なるほどと思ふものなれど、敢へて問ふ。「十歳ばかりの童、ことによりては真に白き心あり。穀菜に命ありと言はば、草も踏めぬ道も歩けぬことにもやする」
僧答ふ。「それもよし。吾子、蚊蝿のたぐひを殺生することもなし」
吾感心したるも下がらず。「仏の教へにては万物の命、西洋の教へにては神の御恵、これこと貴重な思ひなれど、少年少女おひおひに覚ゆるがよし。まづは一等近き人のありがたきこと伝ふべし。料理する人、それ生業なれども、かの業なくして童等の腹満つることなし。この一点にて感謝の意表せるは、人の本道なり。近き人を尊ばずして、遠き神仏、万物仏性など心底に落ち着くことなし。ただただ言葉が内にて命の意を弄ずるより、目に見ゆる親切こそ尊むがよけれ」

「命は命、一の大事なり。なれども近しき人の心また大事なり」と僧莞爾として肯きけり。


posted by いにしへびと at 23:54| Comment(2) | TrackBack(0) | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
TBありがとうございました。
(すみません、私は現代語で.....)

お陰で素晴らしいブログを知ることができました。私も古文は大好きだったのでとても興味深いです。これから日参して勉強させて貰います。そのうち私も古語でコメント書けるようになるかな?

どうぞよろしく!
Posted by at 2005年11月18日 12:47
桐様、ありがとうございます。草の生えかけていましたところへ、もったいないお言葉まで頂き恐れ入ります。

現代語でコメントいただきました方には現代語でお答えいたしておりますので、お気兼ねなくいらして下さい。

素養がないため、本文も実のところ限りなく「似非」に近い文語体ではないかと気にしておりますが、また機会あれば更新いたします。こちらこそよろしくお願いいたします。
Posted by いにしへびと at 2005年11月18日 22:49
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